馬好きだった父の反対を押し切り、酪農の世界に飛び込んだ。

そのチャレンジ精神は今も衰えない。

乳加工も手掛け、農家とも連携しながら、農産物の販売拠点を展開。

地域を元気にしていく、そんな紡ぎ直しが始まっている。

馬から牛へ、若き後継者の挑戦

岩手県の最高峰として知られる岩手山、その南麓に位置する雫石町に松原久美さん(62歳)の牧場はあります。広大な山地に広がる放牧場では、牛たちがのんびりと草を食んでいました。この放牧場は近隣の酪農家たちと結成した「西山牧野組合」(組合員数430人)によって管理されています。
組合長を務める松原さんは、今では酪農家の中心的な立場ですが、この地域で酪農に参入した農家の中では後発組だったそうです。松原家が酪農を始めたのは1968年。松原さんが農業を引き継いだ18歳のときからで、父の代までは馬の飼育と稲作を手掛けていました。
「雫石は南部馬の産地で、農耕馬や軍馬などを育てていました。馬農家はこだわりを持つ人が多くて、父も馬が大好きでしたね。だから私が酪農を始めたいと言ったら父は大反対だったんですよ。ただ将来性を考えたら酪農と稲作の経営に変えていきたかった。結局は父の反対を押し切った形ですね」
2頭の乳牛から松原さんの酪農は始まりました。
「酪農技術も今のように確立されていなかったし、手探りで進めることが多かった。どうすればいいのか、それを教えてくれたのは牛たちです。牛をよく見て、牛の声を聞く。今でも牛に教わることはたくさんあります」
まさに牛と共に歩んできた松原さん。牧場の規模は徐々に大きくなり、現在は経産牛80頭、育成牛60頭に。
牛舎は3棟あります。牛を柵につながない「フリーストール式」なので、牛たちは自由に牛舎の中を動くことができます。そのうち、1頭の牛が牛舎の端に設置された大きな機械のほうに歩いていき、自らその中にすっぽりと収まってしまいました。この機械はいったい……?

この機械の正体は? 吹き出しをクリック
すごい!搾乳ロボット

「これはね、搾乳ロボット。牛がこの中に入ると自動で搾乳される。牛によって異なる乳房の位置をセンサーで察知し、搾乳機の着脱を自動で行います」
すごい! 搾乳が終わると、「ああ、すっきりした」という感じで牛はロボットから離れていきました。それにしても、どうやって牛は自ら機械に入るようになるのでしょうか。
「搾乳ロボットは、えさを自動で与える仕組みになっています。このえさは、穀物などを配合した、牛にとってうれしい“おやつ”なんですよ。ロボットに入ればおやつが食べられるよ〜と気を引くというわけ」
1日の搾乳量は牛によって異なります。搾乳量や牛の様子を見て与えるえさの量を決め、その情報をロボットのコンピューターに入力するのは松原さんの長男です。全自動のロボットといえども、目利きは不可欠です。

牧草を自家生産し、安全・安心につなげる

松原さんは牧草を自家栽培しています。刈った草はラッピングし、乳酸発酵させた「サイレージ」に仕上げていきます。2年前からは、稲のサイレージである「ホールクロップサイレージ」も始めました。
「ホールクロップは乳成分を安定させる効果があります。ウルチ米と同じように田んぼで栽培するので、減反品目にカウントされ、私のように稲作と酪農をしている農家にとっては減反対策にもなります」
このため地域の酪農家にも声をかけ、今では4軒でホールクロップの利用組合を設立・運営しているそうです。
牧草の自家生産に力を入れるのは、より安全でおいしいえさを牛に与えたいという思いから。福島の原発事故以降は、栽培した牧草を検査し、基準値をクリアしたものしか使っていません。
「牛糞は、もみ殻やワラなどを混ぜ、発酵させて堆肥にし、田んぼや畑、牧草地の土づくりに使っています。土をしっかり作っておけば、作物はよく育つし、化学肥料の使用量も抑えることができる。自分で作る、出どころのはっきりとしたえさを与えることが安全にもつながっていきます」

酪農の現場から、もっと声をあげていこう

酪農を始めたときから、いずれは加工も手掛けてみたい、そう思い続けてきた松原さんの夢がかなったのは2001年。自家製の牛乳から作るアイスクリーム工房「松ぼっくり」をオープンしました。
アイスクリームにはさまざまな種類の野菜や果物などを加えいていますが、これらの農作物は自家栽培のほか、近隣の農家からも購入しています。農産物の販路としてもアイス工房は機能しているというわけです。 さらに、松原さんは2004年、工房の隣に農産物直売所「松の実」を開設しました。
「アイス工房が予想以上の人気になったので、買い物のできる場もあればいいなと。直売所は地域の農家が作る野菜や加工品の売り先にもなりますから」
出荷する農家の数は徐々に増え、今は約60人が旬の野菜や果物、味噌やパン、和菓子などの加工品を持ち寄ります。また、工房と直売所は雇用の場ともなっており、施設を核に地域の元気が広がっています。

アイスクリーム工房「松ぼっくり」の詳細は吹き出しをクリック
季節の味が楽しめる手作りアイス

「松ぼっくり」は年間約17万人のお客さんが訪れる、雫石でも有名な立ち寄りスポットです。
アイスクリーム加工を始めたきっかけは、松原さんが研修先の北海道で1台のアイスクリーマーを購入してきたこと。妻のたみえさんが自家製の牛乳で試しにアイスクリームを作ってみたら……。
「ちょうどトマトの収穫期だったので、トマトアイスにしてみたんです。それがホントにおいしかったんですよ。子どもたちも大喜びで。それからですね、いろいろなフレーバーを作って研究するようになったのは」
「松ぼっくり」のアイスはフレーバーの豊富さが特徴の1つ。野菜や果物などは煮込んでペースト状にして牛乳と混ぜます。なにより新鮮な牛乳を使っているのが、おいしさの秘訣。チーズ、ゴマ、カボチャなどの定番フレーバーに加え、春にはサクラやヨモギ、イチゴ、夏はエダマメ、トマト、ワサビ、秋はクリ、リンゴ、玄米、冬はショウガ、アズキ、焼きイモなど、季節限定の味も楽しめます。

酪農家の誇りと願い

「牧草地の向こうにどーんと岩手山があってね。牧草を育てて刈ってロール・ラッピングして、確かに重労働ですが、この風景の中で仕事をしていると気持ちいいですね。トラクターに乗りながら好きな音楽をかけたりして。自分の采配で仕事をしていけるのが農業の楽しさかな。それにね、酪農家は饒舌な人が多くて研究熱心。搾乳や給餌作業で朝が早い分、夜は7時くらいには仕事が終わるので、酒を飲みながら朝方まで語り合うこともある。それがまた楽しいんですよ」
酪農に誇りを持っている松原さん。今では、長男が酪農を、次男はアイス工房と直売所の運営を担う頼もしい後継者となっています。
「たった2頭の乳牛から始めたので、一人前の酪農家になることだけを目指してきました。何も特別なことをしてきたわけじゃない。毎日の積み重ねが今につながっているんです」
「牛はすごいなと思いますよ。人間が食べない牧草を食べて、ミルクを人間に与えてくれる。そのミルクをおいしい状態にして届けるのが私たち酪農家の務めです。ミルクに限らず野菜も米も食べ物は大地からの贈りもの。安いとか高いとか、経済の尺度だけで計っていいものではありません。自然の恵みをいただいているという思いを消費者のみなさんにも大切してもらいたいですね」
コップ一杯の牛乳の向こうにも、たくさんの人の手と願いがあります。

牧場名
松原久美牧場
牧場主
松原久美
所在地
〒020-0585 岩手県岩手郡雫石町長山芦谷地64-2
家族数
6名
従業員数
3名
酪農開始年
1968年
飼養頭数
経産牛80頭、育成牛60頭
牛舎
フリーストールとつなぎ