前に進むしかない。バックギアを 壊して、前に進むんです

大震災で北上川を遡上した津波によって牛舎が浸水、

多くの牛を失い、甚大な被害を受けた佐々木牧場。

目指すは地域が一つになる“本当の意味での復興”。

家族で支えあってきたこれまでの道のりを語ります。

北上川をさかのぼった津波 多くの牛が命を落とした

東日本大震災で発生した巨大な津波は、石巻市の北上川堤防を河口からおよそ13キロにわたって破壊。河口部の右岸には海からも津波が押し寄せ、700名近くの尊い命が犠牲となりました。
河口から5キロ地点にあるのが佐々木牧場。近くには、多くの児童や教職員が命を落とした大川小学校があります。なだらかな地形のため、津波はエネルギーを保ったまま流域を遡上したそう。
「真っ黒な濁流が北上川の堤防を1メートル以上越えて襲ってきました。ゴーッというものすごい地鳴りとともに、家や車が流されてきた。まるでリアルな映像を見ているみたいで、なかなか目の前の状況を理解できない自分がいました」と、当時を振り返るのは、佐々木牧場を経営する佐々木豊一郎さん(43歳)。豊一郎さんは、津波警報を聞きつけた奥さんの路子さん(40歳)、長男の快輝くん(12歳)とともに、次男の匠悟くん(6歳)のいた橋浦保育所へ。水位が増す中、教室内の机を積みあげて高い場所に子どもたちを避難させたものの水位は引かず、暗闇の中、知り合いが船で救助に来てくれたのは午後8時すぎだったといいます。
胸まで水につかって子どもたちを乗せた船を押した記憶がありますが「寒さは全然、感じなかった」と豊一郎さん。翌日、牛舎を見に行くと1メートル以上の浸水。機械系統はすべて壊れ、餌は水没、牛たちは首の位置まで塩水につかっていました。「よく生きてたよね。でも3日目から次々に倒れて、沈んでいく牛もいました」と言う路子さん。事務所内の壁には、いまだに浸水したラインを示すシミが残っています。

一人でいると重圧に押しつぶされる 駆けつけてくれた仲間に元気づけられた

牛舎を通りかかるたび助けを呼ぶように鳴く牛たち。それでも、震災翌日に到着した自衛隊の隊員とともに、ボートを使って取り残された人の救助活動を3日間続けました。濁流の中、体にロープを巻いて電柱に結びつけながら、住居や老人ホームに残る人を救助。「とにかく生きている人を助けよう。今、人としてやらなければいけないことは何か?と、そんなことばっかり考えていました」
およそ400人が避難していた橋浦小学校。長女・美咲さん(18歳)、次女・美月さん(15歳)、父母の勇一郎さん(71歳)、成子さん(69歳)の無事も確認できましたが、夜中に目を覚ますと、安否がわからない家族を思って廊下ですすり泣く人の声が聞こえます。「いたたまれなかった。あれがいちばん、きつかった」と豊一郎さん。牛舎の牛を救出できたのは震災から10日目でした。87頭いた牛のうち、生き残ったのは35頭のみ。畜産農家の仲間がダンプや機械を手配して駆けつけ、3日間かけて泥を掻き出してくれました。
「一人でいると力が出なくなり、重たい空気で押しつぶされそうになる。でも、仲間が外の空気を持ってきてくれて助かった」と言います。仲間たちが帰り、いざ片付けようとすると、ドライバー1つが水没のために見つからない状態。どこから手をつけようかと迷い、苛立つーー。そんなとき「ねぇ、お腹すいた!」と言ってくる路子さんが救いだったそう。路子さんは「夫には、8人家族を養わなきゃという重圧もあったと思うんです。こういうときは一緒に落ち込んではダメ。あっけらかんとしているのが私の役目かなと思って」と涙を浮かべながら話してくれました。

酪農を続けるのが 復活への最短距離

佐々木牧場の現在の牛舎は、2006年8月に建設、ようやく経営が軌道に乗ってきた矢先に起こった震災でした。悩みに悩んで、沸いてきた思いは「出した答えが進むべき道だ」ということ。他の仕事をするか、という思いが頭をよぎったこともありますが、「牛舎を作ってここまでやってきたという自負もあった。震災を理由に、子どもたちの大学進学をあきらめさせたくもなかった。酪農を続けるのが復活への最短距離だと思ったんです」
電気と水道が復活したのが4月10日。その日に牛舎復活の日を6月8日と決めました。「経営者として求められるのは、方向性を打ち出すこと。テレビにも出て『復活するんだ』とアピールしました」
かつて牛舎を作ったときに「日本一の牛舎を作る!」と宣言し、そのときにできた仲間が今回、さまざまな形での支援をしてくれたそう。愛知県に住む大学時代の同級生は子牛を3頭プレゼントしてくれました。「乳を搾れるまで2年かかる。2年間は修行だと思ってがんばれ」というメッセージつき。「そうやって応援してくれると、前に進むしかない。バックギア壊して前に進め、こうなったらほふく前進だ!ってね」と力強く話す豊一郎さん。
6月8日、予定どおり牛舎を稼働し、15頭を搾乳、350キロの生乳を出荷しました。震災から1年経過した翌年の3月11日には、1日あたり2トンを超えるまでに搾乳量も増加。とはいえ、まだまだとても「復興」とはいえない、と豊一郎さん。「借金をしなおして、震災の前日に向かってスタートを切ったというのが現状です。正直、この先、あの日に戻るために何年を費やすのか、という葛藤は今でもあります」と話します。

地域のみんなで取り組む復興 吹き出しをクリック
地域のみんなが 元気を取り戻してこその「復興」

佐々木牧場では 2004年から4件の酪農家とともに「酪農転作生産組合」を組織してきました。牛舎で作った堆肥を地域の転作田に施し、家庭菜園などに活かしてもらおうという「耕畜連携」の取り組み。豊一郎さんは、震災後、提供を受けたトラクターを使って、機械のない農家の分も土地を耕しています。現在再整備が進んでいる水田がすべて復活し、これまでどおり、稲わらと堆肥の循環が行われるようになって、初めて「復興」です。「この地で産業が成り立たないと、若い人はいなくなり、高齢者しか残らなくなる。地域は勢いをなくしてしまう。これが本当の、被害です」
近隣地域の酪農家6件のうち、経営復活できたのは佐々木牧場のみです。「震災がなければバリバリと働いていた人たちが、酪農家にとってありえない時間に散歩したりしている。そういう姿を見ると、胸が痛むんです。自分なんかよりもずっと牛のさわり方を心得ているベテランの酪農家さんたちに、うちの仕事場を提供して心の安まる場所にできないか、そんなことも今考えています」
地域みんなで元気を取り戻すために動き続ける豊一郎さんの強い意志が伝わってきます。

土への感謝と責任感を胸に、 前に進む

路子さんは毎朝5時30分、豊一郎さんは6時30分から搾乳を開始します。夜も遅い時間帯まで牛舎で仕事。700メートル離れた自宅では、祖母の成子さんが子どもたちの面倒をみてくれます。震災以降、何度も開いた家族会議。現在、子牛と和牛の世話を担当する父親の勇一郎さんは、引退を10年延ばして「じじも80歳まで元気に酪農するぞ!」と宣言してくれたそうです。
スポーツ少年団などで土日も忙しく活動する子どもたちは、30分でも時間が空くと農作業を手伝いにやってきます。「そうでもしないと、話す時間がないからね!」と笑う路子さんは、搾乳や餌やりなど牛舎の中の仕事を主に担い、大型トラクターもダイナミックに操ります。そんな路子さんを見て豊一郎さんは、「男はカッコだけつけるけど、弱いんだ。でも、あいつがいたからがんばれた。女の人は強いよね」とつぶやきます。
何より、夫婦を支えてくれたのが子どもたちの存在でした。「震災経験を経て、話すことも変わってきた。日々子どもが成長しているのがわかる。毎日毎日、昨日とは違う彼らを見ていると、自分も立ち止まっている場合じゃないって思うね」
もう一つ、佐々木さんたちを突き動かしているのが「土への責任感」だといいます。「自分は日本人なのだから、日本を復興していくために今、やるしかない。酪農家は土を相手に仕事をきて、土から還元してもらっていることがたくさんあるんです。人のせいばかりにしても結末は変わらないでしょう」。 立ち止まり、迷い抜いたからこその、ゆるぎない覚悟があります。

牧場名
佐々木牧場
牧場主
佐々木豊一郎
所在地
〒986-0202 宮城県石巻市北上町橋浦字上大須645
家族数
8名
従業員数
3名
酪農開始年
1953年
飼養頭数
搾乳牛79頭
牛舎
つなぎ牛舎